神明神社の由来

町に降りる伊勢、町を見守る八幡お神明さんと、対の社のこと

六日市の会場となる六日町には、伊勢両宮神社と、その境内社である松尾神社があります。地元では「お神明さん」の名で親しまれ、「伊勢両宮神社と松尾神社の周辺」として遠野遺産(認定番号142)にも認定されています。

「お伊勢さん」と、町なかの伊勢

伊勢神宮 — 内宮と外宮

三重県伊勢の地にある伊勢神宮は、正式には「神宮(じんぐう)」と称し、内宮(ないくう / 皇大神宮)と外宮(げくう / 豊受大神宮)を中心とする125社からなります。約2000年前、皇祖神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を奉じて旅をした倭姫命(やまとひめのみこと)が、五十鈴川のほとりに皇大神宮をお定めになったのが始まりと伝えられています。それから約500年の後、雄略天皇の御代に、天照大御神の御饌(みけ)の神として、丹波国から豊受大神(とようけのおおかみ)を外宮にお迎えしました。

以来、内宮の天照大御神と外宮の豊受大神は「二所大神宮(にしょだいじんぐう)」と並び称され、20年に一度、社殿を新しく建て替える式年遷宮(しきねんせんぐう)を、天武・持統天皇の御代から1300年以上にわたって繰り返してきました。

お伊勢参りと、村ごとの伊勢

「一生に一度はお伊勢参り」と言って、江戸時代、庶民にとって伊勢神宮への参拝は、誰もが憧れる一生一度の大旅行でした。60年周期で大流行した「お蔭参り(おかげまいり)」により、文政13年(1830年)には約500万人もの人々が伊勢を目指したと伝えられています。当時の人口の6人に1人にあたる数です。

しかし、誰もが伊勢まで旅できたわけではありません。そこで各地の村や町で「伊勢講(いせこう)」という仕組みが生まれました。仲間で少しずつ金を積み立て、代表者を伊勢に送り出す。送り出された者は、自分の分だけでなく、村人みなの分の祈りを携えて伊勢に詣でたのです。

その伊勢講をまとめ、参拝者を自宅に泊めて世話をしたのが「御師(おんし)」と呼ばれる伊勢の神職たちでした。御師たちは全国を巡り、お札や暦を配って伊勢の神威を広めました。最盛期にはおよそ2000人もの御師が活動していたといわれます。

こうして伊勢の信仰は全国に広がり、各地の村や町には、伊勢の御分霊を勧請(かんじょう)した「神明社」「神明神社」「伊勢社」が次々に建てられていきました。それは、はるか伊勢まで旅できなくとも、自分たちの暮らす土地で、伊勢の神に手を合わせられるようにするためでした。神明社・伊勢社の類は今も全国に4000社余り、八幡信仰に次いで多くの分布をみせています。

遠野の「両宮」 — 居ながらにしてのお伊勢参り

六日町の伊勢両宮神社が「両宮」と称するのは、伊勢の内宮(天照大御神)と外宮(豊受大神)の御祭神を、ひとつの社にあわせてお祀りしているからです。ここに参れば、伊勢の内宮・外宮の両方にお参りしたことになる ── そう言い伝えられてきました。町の人々にとってこの社は、伊勢を町なかに迎えた「居ながらにしてのお伊勢さん」だったのです。

伊勢両宮神社の由緒は、中世、遠野を治めた阿曾沼氏が土淵町似田貝の地に勧請したことに始まります。これは、伊勢の御師たちが東国へと信仰を広めていった、まさにその時代の流れの中にあります。やがて天正年間(1573〜1592年)に太平山へ遷座し、正徳元年(1711年)、遠野南部氏によって町なかの現在地、六日町に遷宮されました。江戸も中期にさしかかり、お伊勢参りが庶民の大ブームへと向かっていく、ちょうど助走の時代です。領主が町中に伊勢を据えたこの遷宮によって、遠野の町方の人々は、伊勢を身近に拝めるようになりました。

以来、お神明さんは町方と領主の双方から崇敬を集めてきました。

伊勢両宮神社 — 概要

ご祭神

  • 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  • 豊受大神(とようけのおおかみ)

由緒

中世、阿曾沼氏により土淵町似田貝に勧請されたのが始まりです。天正年間(1573〜1592年)に太平山へ遷座し、正徳元年(1711年)、遠野南部氏によって現在の六日町の地に遷宮されました。御神体には寛延4年(1751年)の銘が刻まれた鏡が伝えられ、現在の社殿は昭和6年(1931年)に建てられたものです。

松尾神社

ご祭神

  • 大山咋神(おおやまくいのかみ)

京都・松尾大社を本社とする、酒造をはじめとする醸造の守り神です。

由緒

元文4年(1739年)、新町の豪商・両川覚兵衛(りょうかわ かくべえ)が勧請したと伝えられています。社殿はかつて茅葺屋根でしたが、後に現在の形へと改められ、内には神輿が安置されています。今も毎年、遠野まつりに参加し、町と共に歩み続けています。

境内のもう一社

伊勢両宮神社の社地には、ほかに経ヶ沢稲荷神社(きょうがさわいなりじんじゃ)も祀られています。神明・松尾・稲荷の3社が1つの杜に鎮まる、町なかの小さな鎮守の森です。

対(つい)の社 — 八幡宮と神明神社

遠野には、伊勢両宮神社(お神明さん)と並んで、もうひとつ町を見守ってきた大きな社があります。松崎町にある遠野郷八幡宮(とおのごう はちまんぐう)です。八幡宮は、文治5年(1189年)に源頼朝から遠野郷を賜った阿曾沼広綱が、氏神であった八幡神を勧請したことに始まり、後に阿曾沼親綱が横田城を築いた際、城の鬼門にあたる東北の方角に改めて勧請したと伝えられています。八幡神は古くから源氏の氏神とされ、武家にとっての守護神でした。

阿曾沼氏の時代も、続く遠野南部氏の時代も、遠野の領主はこの2つの社を「一対のもの」として整え続けてきました。八幡宮は古くから 武家・領主の社 として町外れに馬場を伴って構えられ、神明神社(伊勢両宮神社)は中世の似田貝、太平山を経て、正徳元年に町なかへと遷座してからは 町方にも親しまれる社 となりました ── 遠野の祭祀は、この二つの極をめぐって育まれてきたのです。

このことを最もよく示しているのが、寛永4年(1627年)に八戸から遠野に転封された南部直栄(なおよし)の事績です。直栄は 寛文元年(1661年)、八幡宮を旧地から現在地へ遷宮し、流鏑馬の馬場を造営して大祭を執り行いました。それからおよそ半世紀後の 正徳元年(1711年)、同じ遠野南部氏は、伊勢両宮神社を町なかの六日町へと遷宮しています。武家の社を町外れに、もう一つの社を町なかに。およそ50年をかけて、遠野南部氏は領主と町人、双方の祈りの場を整え直しました。

「お神明さん」と「お八幡さま」は、ただ別々に在る2つの神社ではありません。武家と町方、町外れと町なか、互いに異なる役割を担いながら、ひとつの遠野を一対で支えてきた 対の社 です。そして、その対の構造が今も毎年生き生きと立ち現れる場が、秋の「遠野まつり」です。

なお、八幡宮の神輿がなぜ毎年神明神社に一夜を過ごすのか、その確たる理由は今も明らかではありません。遠野郷八幡宮では、「神明神社は伊勢神宮内宮の天照大神(女神)を祀っており、男神である八幡様が会いに行くため」という巷説については、両宮の名のとおり外宮の男神も併せ祀っているので 迷信 と整理し、「神輿渡御は八幡様が町民に会いに行く神事であり、神明神社が町なかのちょうど良い位置にあったから一夜を過ごすのではないか」 という見立てを示しています。

以下に描く渡御の意味づけは、この八幡宮のご見解とも響き合いながら、阿曾沼氏・遠野南部氏の両時代を通じて整えられてきた二つの社のあり方から、ひとつの読み方として試みたものです。

遠野まつりの流れ

毎年9月、遠野の秋を締めくくる「日本のふるさと遠野まつり」は、遠野郷八幡宮の例大祭を中核に置きながら、町じゅうが郷土芸能で満たされる2日間の大祭です。八幡宮の神輿は、神明神社(伊勢両宮神社)まで2日かけて往復します。

この神輿渡御がいつ始まったのか正確なところは分かっていませんが、『菅沼藤左ヱ門控書』に 天保8年(1837年)「半行列」 ── 飢饉のため行列が半分しか組めなかった ── という記述があり、少なくともそれ以前から行われていたことが分かります。渡御の詳細が史料として現れるのは、時代がやや下った 明治39年(1906年)の『遠野新聞』 の記事になります。

初日 — 八幡宮から、町を抜けて、お神明さんへ

初日の朝、神輿は 遠野郷八幡宮 を出発します。役神楽(やくかぐら)や役じしを従えた行列は、町内を練り歩きながら、家内安全・商売繁盛を願う家々や店先で祈祷を執り行い、長い1日をかけて少しずつ町なかを進んでいきます。そして日が傾くころ、神輿は六日町の 伊勢両宮神社(お神明さん) へと到着し、ここで一夜を明かします。領主の社にあった神が、町なかの社へと下りて、町と一夜を共にする ── 古来の御神幸(ごしんこう)の典型的な形です。

明治39年(1906年)の『遠野新聞』には、当時の渡御のありさまが具体的に記録されています。神輿の出発につれて松崎の神楽、附馬牛・青笹・上郷・綾織・小友・土淵など各村々の獅子踊りが連なり、町内からは 上組町の鎧武者20騎、六日町の警護の騎兵25騎、新町の内囃子手踊り、一日市の屋台宝船、穀町の楠木正成の銅像、裏町のタコの屋台に内囃子手踊り ── と、町々がそれぞれの担い手として華やかな出し物を繰り出しました。神輿は日が沈むころに六日町の神明神社に到着し、同夜は神輿を神明神社に泊めて、翌日に本社の八幡神社へとお帰りになった、と記されています。今に続く渡御の骨格は、少なくとも明治の頃にはすでにこの形をとっていたことが分かります。

『遠野新聞』明治39年(1906年)の記事スキャン。当時の神輿渡御の様子を記録した縦書きの新聞記事
『遠野新聞』明治39年(1906年)の記事より

二日目 — お神明さんから、再び八幡宮へ

明けて二日目、神輿は お神明さんを出発 し、再び町を抜けて八幡宮へと還っていきます。八幡宮では神輿の到着を待ち、遠野南部流鏑馬(やぶさめ) の神事が執り行われます。これは寛文元年(1661年)、南部直栄が馬場を造営して始めて以来、およそ360年にわたって途絶えることなく続けられてきた、遠野の誇る伝統行事です。流鏑馬の後には、神輿を中心に 40団体以上の郷土芸能 が奉納される「馬場めぐり」が行われ、しし踊り、神楽、さんさ、田植踊り、民俗囃子といった遠野の芸能が、1日かけて次々と境内を彩ります。

渡御が描き出すもの

この2日間の神輿の動きを上から眺めれば、それは 八幡宮の神が、町なかの神明神社のもとに下り、一夜を共にして還っていく という、年に一度の御神幸です。動くのは八幡宮側だけですが、町なかの社が「迎えるべき相手」として選ばれ続けてきたこと自体が、両社の関係を物語っているといえます。阿曾沼氏が遠野郷を賜って以来、800年以上にわたって遠野を支えてきた「対の社」の関係が、毎年秋、神輿の渡御という形で町じゅうに改めて確かめられていく ── 遠野まつりはそういう祭りなのです。

結びに

伊勢両宮神社、すなわち「お神明さん」は、六日市の会場となる小さな鎮守の森であり、六日町・下組町のハートランド(中心)です。地元の人々にとっては、いつも車で通る遠野住田線と猿ヶ石川のあいだにある、ごく身近な杜です。

けれども、この社は、ひとつの町内の鎮守というだけの場所ではありません。

中世、阿曾沼氏が遠野へと伊勢を勧請したことに始まり、江戸中期、遠野南部氏が町なかへと遷宮して以来、お神明さんは町方にとっての「居ながらにしてのお伊勢さん」であり続けてきました。そして遠野郷八幡宮と一対をなす「対の社」として、領主と町人、武家と町方、町外れと町なか ── 遠野という町を成り立たせてきた二極の一方を担い続けてきた社でもあります。

毎年秋の遠野まつりにおいて、八幡宮を出た神輿が一夜を明かし、翌朝ふたたび町へと繰り出していく要の場所となるのも、そうした長い歴史の積み重ねの上でのことです。六日町と下組町の中心であると同時に、遠野そのものの祭祀と暮らしを支えてきた、遠野にとってかけがえのない場所 ── それが、私たちが六日市の舞台としてお借りする、伊勢両宮神社なのです。